鶴が来た江戸「箕輪金杉三河しま」

伊藤 三平

『名所江戸百景』シリーズの中の「箕輪金杉三河しま」である。少し焼けがあるが、初摺りの作品である。現存している初摺りの作品は鶴の羽が、顔料の鉛白の酸化で黒ずんでいることが多いが、この作品は鉛白の大半が落ちている為か、かえって白い。

原画は筆者蔵

1.空(から)摺り

初摺りのこの絵には、鶴に見事な空摺りが施されている。空摺りとは、版木の凸の部分に絵の具を付けずに、紙を置き、紙に湿り気を与えて、摺る方法である。摺ると、紙に凹凸ができ、立体感を表現することができる。
そのような摺りなので、空摺りは実物を見てもわかりにくい。絵を斜めから見たりして、光の加減を調整すると見事に浮き出てくる。
下の写真は絵を斜めにして、光を調整して撮った写真であり、空摺りの見事さをご覧いただきたい。

上部の鶴の空摺り 下部の鶴の空摺り

空摺りは現代版画ではフロッタージュ技法と呼ばれているものに近い。フロッタージュ技法の例として、小学校の時に硬貨の上に紙を置いて、上からこすったことを思い出していただきたい。
空摺りは、新たにその為だけに版木を彫る。そして鉛筆など色を出すものを使わず、バレンの力だけで凸凹を付けているのだ。

湿った和紙で、形を押しただけであれば、長い年月の間に、紙の凸凹が戻ってしまうのではとも心配するが、ご覧のように残っている。凄いものだと感心する。

2.鶴が飛来していた江戸

江戸末期、今から150年前に江戸(東京)に丹頂鶴が飛来していたのを想像するのは難しい。しかし嘘ではないのだ。場所は荒川区の三河島(今の東日暮里1丁目)である。ここに丹頂鶴を保護する場所を江戸幕府は設け、近在の者を餌をやる係や、犬が入り込むのを防ぐ係を任命していた。餌をやる係として「餌まきの平四郎」と呼ばれていた者がいたことが伝わっている。

やってきた鶴を驚かさないように、近くでは凧揚げも制限して保護していたそうだ。そして、必要な時期に将軍の鷹狩り=「鶴御成り」があった。そして数羽の鶴を捕獲して、その内の一羽を朝廷にも献上していたと伝えられている。特に将軍自ら鷹を放ってとった獲物は「御拳(おこぶし)の鶴」と称していたようである。

丹頂鶴は毎年10月頃から3月頃まで飛来していたようだ。今の暦に直すと11月頃からの冬の時期になる。

江戸幕府が滅び、この制度もなくなると、誰でもが鶴を捕獲する時代が到来し、20年で丹頂鶴は壊滅的打撃を受けたと伝えられている。丹頂鶴の学名は「グルス・ヤポネンシス」(日本の鶴)というそうだが、残念なことだ。(以上の項は、『広重 名所江戸百景』(ヘンリースミス著)や『今とむかし廣重名所江戸百景帖』(暮しの手帖社版)などを参考にした)

私は今は東京の隣の千葉県市川市に住んでいるが、小さい時、昭和30年代には、近くに田があり、そこに鶴ではないが白鷺は飛来していた。
友人は館林に住んでいるが、そこには今でも鶴が飛来する池があるそうだ。

3.縁起の良い絵

この絵は、当時の江戸の人に好まれたと思う。何と言っても「鶴は千年」なのだ。今でも売れる絵画の要件として、図柄は大きなウェイトを占めている。富士山、バラや桜などのきれいな花、美人などが喜ばれ、暗い絵などは人気がない。
ちなみに、画家は生活の為に多くの人に喜ばれる上記のような図柄の絵を描くことも多々ある。それらは結局は観る人の心を打つ絵にならず、後世の具眼の人に「売り絵」と称されて蔑視されている。たとえば「バラに名品なし」の言葉も残っている。

この絵は喜ばれる為に鶴を描いたのではなく、丹頂鶴が実際に来る土地を名所として描いている。そして、そこに画家は色々な思い、狙いを入れて描いている。広重は当時の浮世絵師であり、一般受けも狙わなくてはならない。

私は発見した。広重のサービス精神を。

右に描かれた木をご覧いただきたい。浅学の為に木の種類はわからないが、この枝ぶりは扇を開いているように見える。扇をいくつも開き、松の姿を演じているのを見たことがあるが、まさにその姿だ。(黄色線で一部を扇形になぞってみたが、私の述べるように扇をいくつも開いて天晴れ、あっぱれとやっているように見えませんか?)

この絵が描かれている季節は前述したように冬の時期である。そこで正月に長寿の縁起をかついで飾った家が多いのではなかろうか。

4.優雅な舞鶴のイメージと実際に観た印象のギャップ

縁起の良い鶴を描いていることに加え、その大きな鶴が上空を舞っているのだ。鶴が空に舞う姿をイメージするだけで優雅な印象を抱く。

しかし、実際に手元において良く、良く観ていると、何か違和感を感じる。それは「縁起の良い鶴」とか「優雅な鶴の舞姿」という鶴に伴うイメージ(先入観)が、そのまま持続できない為と考えられる。

このHPでも紹介している「深川洲崎十万坪」も同じような構図だ。鶴ではなく、鷲が大きく描かれている。鷲に持つイメージは、鳥類の王者で「堂々としている」「雄大」というものではなかろうか。その雄大のイメージが、”十万坪の広大さ”に結びつくから、絵を観る人のイメージが増殖されるのだ。イメージが増殖されると感情も豊になり、結果として高く評価される絵になっている。

一方、この絵は”鶴=縁起がいい”、”空に舞う鶴=優雅”という絵を観る人が持っている先入観のイメージを増殖してくれないのだ。
これは何なのか。

まず構図だが、『名所江戸百景』によく見られる近景に大きな対象物を持ってくる構図である。この為、例によって「ハッとする」驚きを、優雅さよりも先に、観る人に与える。
本来の大きさ以上に近景として大きく描くから、舞鶴の大きさと周りの景色との遠近感などに不自然さが出る。でも、こんなことは大したことではない。

鶴の姿はどうか。飛行機でも飛んでいる時は脚は邪魔になり、翼の中にたたみこまれるが、広重も飛んでいる鶴の脚を描くのはカットしている。この為、鶴の飛んでいる姿が強調されている。そこまではいいのだが、首を下に向けて、まるで急降下してくるように描かれている。この姿勢が、”鶴が舞う”というイメージを崩している。しかも本来は優雅のはずの広げた羽は、この土地を大切に包み込むような感じに描かれている。

これは、この地に対するこだわりを示しているのだと思う。絵の主題は名所江戸百景なのだ。だから、土地=名所が大切であることを意識しているのだと思いたい。鶴の首が向かう先には、この土地の番人である餌まきの平四郎が天秤棒をかついで仕事をしているのだ。

鶴の醸し出す縁起の良さも、朝日とか松などの、他の縁起の良いものと一緒だと、イメージが増殖されるのだが、そんなものはない。だって江戸の実在の名所を描いたのだから。(私はオタクだから、先ほど述べたように、右に描かれた木の枝ぶりを扇をいくつも広げたように描いていると感じたが、普通の人はそこまで観ることはない)

また、地面に立っている鶴にも注目して欲しい。この鶴は、この土地が自分の土地のように堂々と立って、あたりを睥睨している。
本来は保護区として竹で矢来が組まれている中にいるのだが、広重は囲いの中の鶴というイメージではなく、自分の土地のように伸び伸びと振る舞っている鶴を描いた。そのように鶴を大事にしている場所だから、名所江戸百景にふさわしと思ったに違いない。

この絵で目立つのは鶴なのだが、要するに広重は鶴、舞鶴を描いたのではないのだ。鶴、舞鶴を通して江戸の名所として選定した「箕輪金杉三河島」を描きたかったのだ。だから絵の主役のように描かれている鶴のイメージから入ると、そのイメージが増殖されずにスッと落ち着くようなところがないのだ。

この絵を、鶴を観る人間の視点から離れて、鶴の視点に同化すると、「また今年もこの場所に戻ってきた」とか「さぁ、食事だ。餌を採ろう」と言うような声を感じてくる。この土地があっての鶴なのだ。

そういう意味で面白い絵だと思う。もちろん、「深川洲崎十万坪」の鷲のように、観る人のイメージを活用・増殖させて、描いた方が名作だ」との意見も否定しない。「水道橋駿河台」の鯉も、「王子装束えのき大晦日の狐火」の狐も、浅草田圃酉の町詣」の猫も、それぞれの動物に持つイメージを増殖させる絵だ。

ちなみに、このページで紹介した「深川洲崎十万坪」の中で記したが、私は『名所江戸百景』の中で、安政4年閏5月の改印の絵に惹かれている。
安政4年閏5月の改印の絵は「両ごく回向院元柳橋」「堀切の花菖蒲」「水道橋駿河台」「深川洲崎十万坪」「箕輪金杉三河しま」の5枚が該当するが、ご縁のないのは「堀切の花菖蒲」であり、いつか入手したいものだ。


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