この鯉のぼりは黒船だ!「水道橋駿河台」 |
伊藤 三平
これは『名所江戸百景』の中でも有名な作品であるが、現物を観ると、その迫力に改めて感動を覚える。
平成13年(2001年)に購入して以来、右の後摺りのものを楽しんできたが、ご縁があって左の初摺りが手に入った。マージンに難があり、絵の右側に軽い擦れがあるが、褪色も少なく良いものである。
入手した初摺り | 旧蔵してたもの |
いずれもカラーコピーをスキャナーで撮ったもので、現物と色合いが違うが、ネット上だからお許しいただこう。
1.初摺りと後摺り
この2枚を例にして、初摺りと後摺り(後摺り、再摺りとも言うが、これも摺りのたびに変化しており、もっと大きく違っている後摺りもある)の違いは次の通りである。
タイトルを書いた色紙(関防という)が、初摺りは赤と青を使い、ボカシも入れて手がこんでおり、加えて布目摺りを施している。後摺りでは薄緑一色になっている。
空の天ぼかしが、初摺りの方は少し黒みがかる。色を変えて、2度摺っているのかもしれない。もっと後の摺りになると、天ぼかしが青に変わっているのもある。
空の色の空色が後摺りになると少し薄いが、同じ初摺り手の広瀬本のものも薄く見える。
富士山の下の丹沢山塊に初摺りはぼかしが入っているが、後摺りになるとない。さらに後摺りになると富士山に雪がかぶらないものもある。
神田川の土手の水際に濃い緑のぼかしが入っているのが初摺りである。
川面の藍のぼかしが初摺りは中央にあるのに対して、後摺りでは端のほうだけである。
川のこちら側で5人が歩いている土手に初摺りはぼかしが入っている。
薄緑の土手の近くの人家の屋根にかけて、初摺りは、もう1色黒い色が薄くかけてあるが、後摺りには、これがない。
遠景の2匹の鯉のぼりが、初摺りは濃い。ボカシも入っているようだ。
画面左の鯉の背びれの下に見える吹き流しの色が初摺りは濃い。
近景の鯉のぼりは初摺り黒が強く、背中の方には雲母(きら)摺りが入っている。
2.黒船の衝撃
鯉のぼりは遠景に見られる鯉のぼりのように、本来はだら〜と吹き流されるものであるが、近景の巨大な鯉は生きている鯉のように尻尾をゆらして、泳いでいる。さらに上空に昇っていこうとしている。神田川から跳ね上がって、そのまま天に昇っているみたいだ。まさに龍になろうとしている鯉である。すでにこの絵の中では、日本一の富士山を越えている。元気が出るではないか。
通説では、この絵は、武士と違って、吹き流しとか幟を立てられなかった町人に飾ることを許されていた鯉のぼりが、武士が多く居住した駿河台、番町の各屋敷−ここには吹き流しや幟が林立している−を睥睨していると解釈されている。すなわち町人の心意気が出ているということだ。
画集で、この絵を眺めていた時は、少し奇抜すぎるなと思っていたが、ともかく実物を見せられてその迫力に圧倒されて購入した1枚である。これだけの驚きを私に与えるこの絵は、そのような「町人の心意気」よりも、もっと大きなものを広重は感じて描いたのではなかろうか。
巨大な鯉の目の青さが印象的である。この目を見ていると、当時、黒船でやってきた外国人の象徴なのかとも思ってしまう。そういえば鯉の体も黒い。大きな黒の衝撃である。そうだ広重の中に、黒船来航の衝撃が残っていたのではなかろうか。
250年間の日常を続けてきた江戸の町に、姿を見せた巨大な黒船。ペリ−が浦賀に来航したのは1853年、この絵が描かれたのは4年後の1857年である。
絵を頭で見れば、通説通りに「町人の心意気」を感じるかもしれないが、この絵だけを観れば「町人の心意気」といった屈折した感情は出てこない。何か次に出現するものを予感させるような感情がわき上がってくる。
観る人が、それぞれの解釈で良いと思う。私は「黒船来航の衝撃をだぶらせている」と感じたが、あなたはどう観て、どう感じるか。ともかく名作は、驚きをもたらしてくれるのである。
3.魂の入った鯉のぼり
息子が小学校時代は、5月5日の前からベランダに鯉のぼりを掲げていたが、息子が中学に入った年に、この絵の後摺りを購入し、以来、鯉のぼりの代わりに、この時期に掛けている。
広重には魚の絵を精密に描いたシリーズがある。魚を描くのも得意だったと思われる。だから鯉のぼりを描いても、本当に生きているような鯉を描いた。魂が入っているような鯉だ。しかも前景に大きく、天高く吊し上げた。見る人は魂消たに違いない。
確かに「芸術は驚き」だ。でもただ驚きの感情だけでなく、その後に「いいなぁ」という穏やかで落ち着いた感じが生まれてくる。それが凄いと思う。
掛けている壁に穴が開いて、そこから当時の江戸の空を眺めているような気分が生まれてくる。駿河台は神田川沿いの高台から、五月晴れの空を私は見ているのだ。
4.構図の良さ
この絵は『広重 名所江戸百景』(ヘンリー・スミス著)と、『広重画 名所江戸百景』(集英社 普及版)の表紙に採用されている。名所江戸百景の特色である構図の面白さを表現して、なおかつわかりやすい絵だから、これら書籍の表紙に採用されているのだと考える。
こんな写真はカメラで撮れるのだろうか。鯉のぼりは広角レンズで撮らないと無理であり、加えて撮れた写真をトリミングする必要がある。
5.彫りと摺りの良さ
彫りについてもふれておきたい。近景の鯉のぼりの鱗を見ていただきたい。と言っても、この小さな画像では無理だが、実に細かい放射線状の毛彫りがほどこされている。木版画というより、銅版(エッチング)のようである。名所江戸百景の中には、屋根の瓦(板敷き)、竹竿、草、縄など細かい彫りはいくつかあるが、この鱗ほど細かく彫っている絵はない(女性を描いた絵では髪の毛の彫りが細かい。この箇所は腕の良い彫り師が作成したようだ)。江戸末期が彫り、摺りのレベルが最高に達したと聞いているが、木版でこれだけ彫れたというのは驚異的である。
初摺りではこの鯉の背中にかけて雲母摺りが施されている。観る角度を変えると、雲母がキラキラと輝いている。
また関防坊(かんぼう…タイトルを書いた色紙)には布目摺りが施されている。
ボカシも多用している。ボカシも江戸時代の遠近感を出すための一つの技法と思える。『名所江戸百景』の初摺りは立体感が出てくるのだ。