都会の心情を明治に描いた作家
−井上安治「霊岸島高橋の景」−

伊藤 三平

この作品は、明治時代の井上安治の傑作『霊岸島高橋の景』である。広重の『名所江戸百景』ばかり集めてきたが、この絵には惚れ込んだ。

原画は筆者所蔵

1.文明開化の光と陰

時刻は黄昏(たそがれ)時、季節は秋。中秋の名月だろうか。
明治になってからの月見は、鉄でできた橋の見物も兼ねたものになった。
橋の上には、人力車に乗っていると思われる人物も含めて20名数えられる。仕事帰りの人もいれば、橋の見物を兼ねて月見に来ている家族連れや、夫婦もいる。渡っている人もいれば橋の欄干にたたずんでいる人もいる。これら人物は影絵のように描かれている。

鉄の橋は強い線で、見事な幾何学模様だ。こぢんまりした橋であるが、私が見ても美しい。安治も美しいと思ったのであろう。また美しいという感情の外に、文明開化の波が押し寄せてくる東京の象徴とも思えたに違いがない。この浮世絵版画を東京土産として持ち帰る人は「東京には、こんな美しく堅牢な鉄の橋ができている」ということを日本全国に伝えるだろう。

鉄骨の太さもきめ細かく描き分けている。これは彫り師の熟練した技である。色は濃い焦げ茶と茶色の2色だが、同じ色でも微妙に明るさが違う。こちらの方は摺り師の腕である。見事なものである。

鉄の橋を支える石の橋脚の素材感をご覧いただきたい。まさに石を描いている。素材感が出ているのは橋脚の石や橋の鉄骨だけではない。船と櫂(かい)は木材だ。人物や人力車の幌などは衣類の素材感がでている。素材の違い=固さの違いが、少ない色と卓越した彫りの線で巧みに表現されている。

空と水面(みなも)に同じ色を使っているが、空の空気と、水面(みなも)の水の違いが明確にわかる。同じ色を使っても、ちょっとしたさざ波の影を付けただけで、水面は生き生きとしてくる。この緑灰色とか青灰色というべき色もいい。美しい色だ。黄昏時から夜に移る一瞬にあらわれるような色だ。

満月の周りの空は、月の光によって明るいが、天空は暗い。月も黄色なんかで描いていない。白で抜いているだけで、効果を上げている。我々はいつから月を黄色で描くような感性になってしまったのだろうか。
その見事な月を遠慮無く橋の鉄骨が遮っている。遮ることで、強調されるような感じが出るから不思議である。
月影が差す橋脚は、鉄橋に遮られるところと、直接に月影が当たるところでは明確に明るさが違う。
月を写す水面は、船の運航に伴うさざ波で、月の形を写していないが、月を写していることは明白になっている。船の影、船を操る人の影もさざ波に壊されながら、的確に写している。

よく見ると、動いている船と泊まっている船の描きだす水面の影に変化がある。左下手前の船は他の船より速い動きだ。それでも夜の川だ。慎重に動かしている。船も、これから休みにつこうとしている。活動する時間である昼が終わったのだ。川の上は全体的にホッとした雰囲気が流れている。

船から洩れる灯りと、その水面に映った影も、なんとも言えない風情を醸し出している。あの灯りの下で食事をしているのだろうか。
遠くの街並みは、橋の下にぼんやりと見えている。活動が終わりつつある町の様子だ。

橋脚や石垣の影は濃い焦げ茶を入れている。黒の影ではない。これも効果を上げて、なんとなく柔らかい感じを出している。月の光が水面で反射して、それが影となっている箇所を柔らかく照らしているようだ。よく、このような複雑な光まで描いたものだ。それも木版で。

時代は明治である。文明開化の流れが古き江戸を押し流そうとしている時期だ。この絵には江戸の名残は感じられない。
こういう激動の時代には、流れに乗って、橋の上を人力車で通る人間もいれば、流れに押し流されそうになって橋桁にもたれて物思いにふける人間もでる。でも、ともかく活動の時間は終わろうとしている。そこに安らぎを感じる。同時に寂しさも感じる。

文明開化の誇りである鉄の橋を描いたが、安治は文明開化の持つ影も感じたから、黄昏時に託して描いたのではなかろうか。

同時に都会の持つ、華やかで、エネルギーが満ちあふれる一方で、他の人々とのつながりが疎遠になり、脇目もふらない分、他人への配慮が欠け、個々に暮らす人に寂しさが生まれるような都市の性格も、この時点で感じて描いているように見える。
たとえば橋の上の人数を見ると、賑やかである。だが、多数の人々を影にして描くことで、寂しさも描いているようだ。
また鋼鉄の否応のない橋組を描くことで、都会の冷たさを見る人に感じさせている。もちろん、都会に絶望した現代人ではない。都会の持つ明るさを描きながらも、天才は敏感に感じたのだろう。後の人が都会の憂鬱と呼ぶような影を。

井上安治は、日本ではじめて近代の都会の持つ雰囲気、その都会で暮らす人の心情までを描いた作家だと思う。凄いと思う。井上安治のことを天才と呼ぶのは26歳で夭折したことだけによるのではないと思う。

2.作者井上安治とは

井上安治(1864〜1889)−浮世絵業界では「いのうえやすじ」と読んでいるが、美術館の中には「いのうえやすはる」としているところもある−は川越の呉服問屋(太物問屋高麗屋井上清七)の長男として浅草で生まれた。はじめ月岡芳年に師事したが、明治11年(1878)の15歳の時に、従来の浮世絵から「光線画」を工夫した小林清親に入門した。画号は安治の他に安二、安はる、探景とも号している。

「光線画」とは水や光の輝きを何度も版を重ねて微妙に陰影をつけて表現した作品であり、明治の文明開化によって夜にガス燈が灯るようになった時代背景を的確に捉えた小林清親の独創である。

安治は師の清親が大判のサイズで描いた『東京名所図』という揃い物の版画をハガキ版という約4分の1の大きさで制作したものが知られている。この「霊岸島高橋の景」のような大判は少ないようだ。

清親と同様に、江戸というより文明開化後の明治の都市としての東京を描いており、新鮮な印象を持つ。安治にも江戸の名残を感じさせる絵があるが、「霊岸島高橋の景」は江戸を吹っ切って、明治からさらに先の大正、昭和を描いているようだ。詳細は4章をご覧いただきたい。ここにおいて、師匠の清親を超えたと思う。
しかし病弱のため、明治22年(1889)に26歳の若さでこの世を去った。夭折の天才画家として、高く評価する人もいる。

3.霊岸島高橋とは


「霊岸島高橋の景」に描かれた橋は、東京で3番目の鉄橋である。明治15年に亀島川に架けられた。日本人技師(原口要)が設計した最初のホイップルトラス型鉄橋であり、高いトラス、長い橋長ゆえ、東京新名所になり、その後の鉄橋設計の模範となった。黒塗りのトラス鉄橋は亀島川・霊岸島の風光を変える異化効果があったとされている。残念なことに大正8年、コンクリート橋に架け替えられている。(中央区郷土史同好会の萩原久利氏の「江戸下町の堀割りと橋」より)

なお安治の「霊岸島高橋の景」の制作年代として、明治13年頃とされているが、上記のように、この橋ができたのが明治15年であれば、それ以降というのが正解ではなかろうか。

霊岸島では明治22年に東京湾汽船が発足した。本社と発着所を霊岸島将監河岸(亀島橋河口水門あたり)に置き、東京と館山、三崎、千葉八幡、木更津、浦賀、勝浦、伊東、下田、沼津、遠州の諸航路を運営した。同地から東京を目指す人々にとって、東京の玄関は霊岸島であったと言われている。その玄関に架けられた鉄橋であり、当時の名所になったのも無理はない。

4.広重→清親→安治→巴水の「夜の橋」
 
「夜の橋」の絵には名作が多い。

まずは広重の「夜の橋」だ。左下の「東都名所 両国之宵月」では月は両国橋の橋脚の下に、橋脚と雲に遮られて絵が描かれている。橋桁の下に月というのが意表をつくし、凄みを感ずる。宵月とあるように黄昏時の月である。
右下の「名所江戸百景 京橋竹河岸」も名作であり、印象派のホイッスラーが、これに影響を受けたと思われる絵を描いていることで名高い。丸い月、太鼓橋の円に対応して、橋桁と竹が直線的な線として多数描かれている対比が効果を出している。

東都名所 両国之宵月 名所江戸百景 京橋竹河岸

師匠の清親には「東京新大橋雨中図」の名作がある。新大橋を得意の「光線画」として描いており、評価が高い。描き方は洋画の影響を受けているが、ご覧のように江戸の名残を多分に残している絵である。和に洋の折衷に明治を見る。
橋そのものは背景に描いているだけで、しかも月は画面にはないが、月光が川面を照らしているさまは見事である。月の代わりに丸い傘が描かれているのが印象的である。

東京新大橋雨中図  明治9(1876)年

次が井上安治のこの絵である。清親の絵からわずかしか経っていないが、これは江戸の絵ではない。文明の一つである工学が入ってきた時代背景を受けて、「江戸」ではな「く東京」を描いている。都市、都会を日本ではじめて描いた絵だ。
井上安治の絵の全てが、このような感じでもなく、清親同様に江戸の名残りをとどめる絵も多い。この絵は特別である。次の川瀬巴水の絵よりも現代人に共通する心情、詩情が籠められている。
鉄橋と言っても、現代の我々から見るとかわいらしい橋である。雲など描きたくなると思うが、そういうものを描かずにまとめている。本当にいい絵だと思う。

霊岸島高橋の景(明治15年)この摺りは明治29年

それから、昭和に入ると川瀬巴水が、次の名作を残している。都会にかかる橋の大きさを描くと同時に、橋の持つ風情を描いていて、なかなかに良い絵である。巴水は都会の憂鬱などは描いていない。ひたすらに日本の美しい景色として黄昏れ時の橋、雨中の橋を描いている。軍靴の音、都会の孤独など無縁である。これも一つの生き方であり、描き方である。

清洲橋 昭和6年(1931) 東京十二景 新大橋 大正15年 (1926)

5.藤牧義夫、松本竣介の先駆者安治

ここまで、辿ってみて、井上安治の「霊岸島高橋の景」は、同じく24歳で夭折した天才と呼ばれる藤牧義夫(1909〜1935以降行方不明)の「隅田川両岸図巻」や、彼が残したいくつかの橋を題材にした版画に通ずるものを感じる。

また版画ではないが、これまた36歳の若さで亡くなった松本俊介(1912〜1948)の油彩の名作「Y市の橋」にも、井上安治と同じ匂いを感じるのは私だけであろうか。

あまり知られていない井上安治であるが、もっと多くの人に知って欲しい感じがする。
ご覧になれば、私と同様に、藤牧義夫や松本竣介と共通する感性、詩情、芸術性を感じる人は多いと思う。


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