いやしの風景「砂むら元はちまん」

伊藤 三平

『名所江戸百景』の「砂むら元はちまん」(砂村元八幡)である。右下に少し擦れがあるのと、若干、赤色が飛んでいるところが欠点だが、初摺りの作品である。
このシリーズの中の絵としては、特異な構図があるわけでなく、俯瞰(ふかん)して描いただけだが、私は画集を眺めている時から、惹かれており、ご縁があったものである。
この絵には癒(いや)される。

原画は筆者蔵

1.昔の江戸前の生気

この場所は現在では埋め立てられており、当時の面影はまったく残っていない。現住所だと江東区南砂7丁目になるようだ。
昔、ここに富岡八幡宮の前身にあたる神社があって、江戸時代の後期には元八幡と呼ばれていた。そして、参道沿いの桜が名所になっていた。

コンクリートの護岸などない時代である。地面が直接海面に接してる様子がうかがえ、何とも言えない風情(ふぜい)がある。もっとも風情があるとは今の時代の人間が言うことで、こういう状況が今でも放置されていては、大水、台風の時は大変であろう。だけど、この儚(はかな)さがいい。神はこのような場所に鎮座されて守ってくださっているのだ。

現在、東京湾において「三番瀬を守れ」という環境保護運動があるが、東京湾の瀬とはこんな様子だったのかと思わせる。昔は東京湾とは言わず江戸前の海だったのだ。三番瀬は様々な生物が住んでいて、水の浄化作用もあると聞いたことがあるが、この絵の芦原でも、多くの生物が命を育んでいることだろう。
何か、そのような生気も感じられる景色である。


2.水と緑

人間を癒してくれる風景に「水辺」と「植物の緑」、特に「新緑の萌葱(もえぎ)色」がある。この絵には、水と緑がふんだんに使われていて、観ていると気持ちが良くなる絵である。

水色というべき青は、おなじみの濃い青=広重ブルーが、ボカシをともなって、天空と房総の山並みの下の海際に一直線に使われている。それから芦の生えている州や参道沿いの海際に斜めに使われていて、絵にメリハリを付けている。そして水面は、薄い水色が覆(おお)っている。
遠くの江戸前の海(東京湾)は、普通通りにバレンを横に動かして摺っている。しかし芦の中の水面は、バレンを縦に動かしているように見える。それで同じ水色でも微妙に色彩感が違っているように見える。

参道は、青ではないが、青に灰色を入れたもので描いている。参道の海側にもボカシが入っているから、これも青の階調の一つと考えると、多様な青が使われていることになる。

緑の方は、湾の中の芦は、薄い色にして、その中に濃淡もつけてバレンを横に動かして摺っている。海の水色と重ねて摺っているような箇所も見受けられ、なかなかに複雑で深みがある。
加えて、芦野の中に、細かい縦線で芦の茎を描いている。濃い色で別に刷っている芦と、同じ色で、形だけで描いた芦が混じり、深みを増している。

参道の土手の両側の草は、上の方は濃い緑にしてぼかして、海面近くの薄い緑につなげている。土手の窪みは、芦を描いたと同じ色で濃く入れている。だから上部の濃い緑、そのぼかし、土手の窪みの緑、土手の下の薄い緑と、4階調の緑になっているわけだ。

松の緑はもう一段濃い緑になっている。

癒しの水の象徴の青色と植物の緑色が、ふんだん、かつ巧みに使われていて気持ちがいいのだ。

『広重 名所江戸百景』を著したヘンリー・スミスも次のように、この絵の色彩感と風情(ふぜい)を賞めている。
「色使いが、明るくさわやかである。表現も巧みで、広重と一緒に、水辺にたたずんでいる感じがしてくる。」

関防(かんぼう=題字を書いている色紙)の黄色と、短冊の赤色が全体を引き締めている。

3.桜と松 

桜は目立たないが、この桜も、白を摺った後に、薄いピンク色を摺っている。そして灰色で、この桜の中に点々を描き、摺っている。枝が花に隠れている様(さま)かもしれないが、このような色を重ねる工夫で全体にふくらみが出ている。

ふくらみと言えば、何か、この桜にも「きめだし」(輪郭を肘などで押して凹凸をつける技法)でも施(ほどこ)してあるような感じもしている。私の所持しているものは、右下の桜の箇所が擦れていて、ここはわからないのだが、上の桜は、確かにふくらんで見える。何度か見ているが、きちんとした「きめだし」には見えないから、単なる絵の具のふくらみであろうか。

松の幹は濃い茶色の他に、明るい茶色も使って摺っている。黒松ではなく赤松なのか。

桜を見物に来ている人は、舟に乗っている人物をのぞくと、手前の鳥居から境内に入ったところに二人、内の一人はキセルをくわえている。もう一人は桜を観るためであろうか、観た後であろうか、笠を脱いでいる。

鳥居の外、画面の右端に一人いる。俳句の宗匠のような人物だ。それから参道の途中、画面の中ほどの松並木に三人いる。帰る二人と来る一人。合計六人だ。名所の、しかも見所の季節と言っても砂村元八幡は江戸のはずれの地である。

4.くの字、くの字の構図

上部の天空と房総の山並みは水平線の構図だが、芦の原と、その中の水が、くの字の構図になっている。それから参道もくの字の構図である。
これが遠近感をつけていると感じる。くの字に沿って、視線を奥に、あるいは手前に誘(いざな)う感じである。 

そう思って見ると、遠くの東京湾上の帆船の白い帆も、手前の帆は大きく、遠くの帆は小さくなって、三角形を組み合わせたくの字に配置していることに気づく。房総の山並みは見えていても、江戸前の海は広いのだ。

手前にあるものは大きく、遠くにあるものは小さく描く遠近法を使っているのは、参道の松の木においても観られる。

この「くの字、くの字」の構図が、この絵の奥行き感を深め、気持ちよくさせているのだ。雄大な風景、視野が広がる風景だ。気持ちがのびやかになるのだ。これも色とは別の癒し効果である

5.摺りの技法 

この作品では、関防(かんぼう=タイトルを書いた色紙)に雲母摺り(きらすり=雲母がちりばめてあり、横から見たりすると見える)が使われている。またボカシは他の名所江戸百景と同様に多く使われている。

この作品で、そして自分が所有してはじめて気がついたのは、バレンの向きというべきか、使い方も何種類もあるのではないかということである。
前述したが、中の州の水面は縦に動かしているように思う。一度、識者に聞いてみたい。

また、これも前述したが、桜の花のふくらみの付け方、「きめだし」かもしれないが、何か秘密があるような気がする。


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