その場の香り、温度、雰囲気まで「真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図」

伊藤 三平

『名所江戸百景』の中で一番長いタイトルの「真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図」である。

料亭の円月窓の向こうには、梅の枝。これは真崎の真崎稲荷の梅樹である。下を見ると隅田川の渡し場である。筏や渡し船が往来している。対岸の森が水神の森であり、そこから右に伸びている川筋が内川である。遠くに見える双こぶの山容が筑波山であり、その下の方が関谷の里である。

原画は筆者所蔵

1.絵の情景

この絵について、『名所江戸百景 広重画』の中で、宮尾しげおが解説している文章を要約すると次の通りである。

真崎稲荷の周囲には田楽を売りものにする料亭があった。真崎稲荷の神官が、吉原の遊女が稲荷を信仰して、諸事成就した評判を巧みに利用して、吉原の楼主などと連絡をとって繁栄策を講じたのが当たり、ここから吉原へ行くコースができた。「田楽で帰るはほんの信者なり」などという川柳に、そのことが表されている。

ヘンリー・スミスは『広重 名所江戸百景』の中で、この田楽屋の名前は「甲子屋」(きのえねや)で、ちょうど真崎稲荷の初午詣の時期ではないかと記している。

以上が正しい絵の解説なのであろうが、私はこの絵を見ていると自分が絵の中に入り込んでいるような情景が自然に浮かんでくる。

今日は、大事な得意先の接待だ。ここでの会食は6時だが、ちょっと早めに来て、料亭の女将と料理の打ち合わせを終えたところだ。
この料亭の中でも一番眺めの良い部屋を予約したが、まだ2月の末で、寒いから窓を開けて眺めを楽しむのは難しい。

部屋の席のこしらえも問題がない。床の間の柱には白い椿が品良くいけてある。料理やおみやげの打ち合わせも終わった。あとはお客さんを待つばかりである。

部屋も暖まっているが、少し炭火の匂いがこもっている。ちょっと寒いけれど、障子を開けて、空気を入れ換えよう。

「寒い」 だけど冷気で気持ちが引き締まる。

もうすぐ日が暮れる。雁がねぐらに帰っていく。黄昏時の筑波山が遠望できる。
おや、いい香りが漂ってくる。真崎稲荷の梅の木だ。初午詣の参拝客も、この時分には少なくなった。

「伊藤様、お客様がお見えになりました」

2.その場の空気まで描く広重

この絵も『名所江戸百景』の特徴である近景と遠景の組み合わせである。
近景は、料亭の円月窓の壁である。この壁を思い切り描くことで、窓の外に見える風景が小さくなるが、その分、窓外の風景が強調されて眼に入ってくる。これも広重の工夫と思う。

窓の右側に描かれている障子は、吾々日本人にはすぐに理解できるが、外国人はとまどうのではなかろうかなどという心配をしてしまう。

左側の壁には柱を描き、そこに白い椿がいけてある。竹で編んだ籠の花器である。柱の下の方に描かれている斜めの黒っぽいのはよくわからないが、竹籠と同じように2色で描いている。この椿と、円窓の外の梅の花から季節がわかる。

雁がねぐらに帰っていく、陽が傾いてきて、筑波山と、その下に見える関屋の里は薄暮に包まれてきている。大川の川面の色も沈んできて、黄昏時と理解できる。今の季節と時間で言うと2月末の夕方5時半くらいと、その時間までわかってしまう。

柱の花籠にいけてある白い椿の風情が、料亭の整った室内を示している。お客を迎えるために準備されている室内である。宴会がこれから始まる緊張感が出ている。

窓の障子を開けた瞬間の外の冷気と、梅の香りが、室内に準備されていた暖気と、ちょうど交わりあった一瞬である。

広重は凄いと思う。季節と時間と、天候だけでなく、その場の気温や、空気の匂いまで描いている。

3.緊張感のある室内とくつろいだ室内

下の図は名所江戸百景の中の「浅草田圃酉の町詣」である。この絵はくつろいだ室内である。室内を斜めに見ているところも、ゆったりとくだけた感じである。そして飲みかけの湯飲み、使った手ぬぐいなどが、ことが終わったあとのようなくつろいだ雰囲気を表している。猫ものんびりと窓外を見ている。

「真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図」における宴の始まりの前の緊張感のある室内との違いが理解できる。

そして、香りが漂ってきた「真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図」と違って、「浅草田圃酉の町詣」の方は酉の市の雑踏の音が聞こえてくる。広重は凄いと思う。

4.色の使い方による遠近感

この絵における白は、左から白椿、帆船の帆、梅の花が点々と左中から右下に流れて連なっている。そして右側には障子の白。

もう一つ、壁の色である青灰色にも注目したい。円月窓の壁と、その真ん中からつながっているように見える筑波山系が青灰色のラインである。傘を横にしたようなラインである。

この青灰色のラインは左側が面積が大きく、圧倒的である。これを大川のブルーが右下から押し戻しているようにバランスを取っている。もちろん水の流れは左上から右下だ。

赤のラインもある。右上の赤の短冊「名所江戸百景」と左中央下の「広重画」を結ぶ線。その間に山際が朱に染まっている。

これらの色を結ぶ線の交点が筑波山である。絵の奥行きが一番深いところである。すなわち色でも遠近感が醸し出されている。うまいと思う。

5.構図のおもしろさ

構図も面白い。近景と遠景の組み合わせ以外に、茶色の縦の線が左の柱と、右の障子の桟にキチンと納められている。そして真ん中にはクネクネした縦の線として梅の樹と、ねぐらに帰る雁の群が描かれている。何とも言えないバランスである。

そして真ん中は半円で、大きくえぐってある。円ではつまらない。半円が面白い。

その円の中は、上から空の紺色の帯、ぼかしを入れて薄い空色の帯。ぼかしを入れて朱の帯、そして青灰色の筑波山系、濃緑色の関屋の里、そこからは対岸の水神の森の緑、渡し船、筏などが横の線で出てくる。

何とも言えないリズムである。

6.摺りについて

この摺りは初摺りか、それに極めて近いものである。左が筆者所蔵のものである。右は広瀬本として名高いもので、『名所江戸百景 広重画』(集英社)から採録した。

筆者所蔵 『広重名所江戸百景』(広瀬本)

筆者所蔵の摺りは、ブルックリン美術館蔵でヘンリー・スミス著『広重 名所江戸百景』に使われたもの(下左図)や、2002年6月にクリスティーズのオークションに出された初摺り中心の揃いものにあったもの(下右図)とも同じタイプである。浦上美術館の所蔵のものも、同様である。

広重 名所江戸百景 クリスティーズのオークション

広瀬本の図と違っている箇所を抜き出すと次の通りである。

  1. 右上の色紙(関防)が、紺色などを使って手間がかかっている。
    筆者所蔵 広瀬本

  2. 対岸の水神の森の、水際にぼかしが入っている。広瀬本の方はぼかしが見えない。筆者所蔵の方が岸の水際のぼかしがきちんとできていなくて岸の草にもかかっていると言えなくもない。ただ黄昏時の雰囲気は筆者所蔵の方が出ていると思う。
    筆者所蔵 広瀬本

  3. 隅田川の真ん中の筏の下の水面にぼかしが入っているが、広瀬本にはない。水面に浮かんでいる船の重みが、このぼかしによって表されている。また川面の色も、筆者所蔵の方が黄昏時の雰囲気が出ていると思う。
    筆者所蔵 広瀬本

  4. 柱の白椿は、底がほんのりと丸くピンク色に染めている。広瀬本の椿には底紅がなく、白一色と見えるが目立たないだけであろうか。(現物を見ていないので)
    筆者所蔵 広瀬本

  5. 筑波山の山頂にもぼかしが入っている。ただこれに関しては広瀬本も印刷の色が濃くてわかりにくいのかもしれない。(現物を見ているのではないので)
    筆者所蔵 広瀬本

  6. 逆に広瀬本の方が初摺りらしいのは、スキャナーで取った上記画像では見にくいが、「名所江戸百景」「広重画」の短冊の赤が、より鮮やかな点である。

6の短冊の赤は、筆者所蔵のものは褪色しているとも思えるので、こうして比較すると、広瀬本よりも筆者所蔵、ブルックリン美術館蔵、クリスティーズのオークションに出たもの、浦上美術館所蔵のものなどの摺りの方が初摺りかなと思うが、結論は専門家に委ねたい。

いずれにしても、良い摺りのもので、絵の壁の部分には雲母摺りが見受けられ、いかにも土壁の雰囲気が出ている。

7.白椿

私は椿が好きである。自宅に30種類弱の椿を育てている。『名所江戸百景』において唯一、椿が描かれている絵を入手できて嬉しい。

この椿は白椿であるが、前述した説明のように底が淡いピンク色である。赤やピンクで底白の品種は多いが、白に底がピンクというのは調べた範囲では見つからない。

ただ椿の種類の中には、「移り白」というものがある。はじめは淡いピンクであるが咲くに連れてピンクが消えて白花になるものである。いけてある椿は「移り白」の一重ではなかろうか。現代の品種では「大満」「門の内」「夕月」「金華白眉」「普門院」「祐閑寺明月」「早春香」などが移り白の品種である。

江戸時代は園芸が盛んであり、椿にも『百椿集』という本も出版されていたほどである。現代には伝わっていない白椿で底淡桃色の椿が、江戸時代には存在したのかもしれない。なかなか興味深い。


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