運気立ち昇る「墨田河橋場の渡かわら窯」

伊藤 三平

『名所江戸百景』の1枚「墨田河橋場の渡かわら窯」(隅田川 橋場の渡し 瓦窯)である。マージンを全面的に補修してあり、焼けて褪色があり、汚れもあるが、初摺りの作品である。

原画は筆者蔵

1.煙だけでなく熱気まで描く

この絵も他の『名所江戸百景』の絵にもあるように、大きな近景と遠景の組み合わせに構図の妙がある。大きな近景は、今戸焼の窯から上がる煙である。
この煙、初摺りでは上図のように、窯の近くは黒く、上に行くに従って白っぽくなるように表現しているが、後摺りになると同じ単色でボカシも使わなくなって風情がない。

後摺りの例

初摺りでは、その黒い煙も焦げ茶を加えて、ところどころにぼかしを入れている。また白い煙の部分もいくつかの色を入れて、より写実的に煙を描いている。
広重が煙を描いた作品はいくつかあるが、焚き火の煙が多い(保永堂東海道五十三次の浜松、木曾街道における軽井沢)。
火を恒常的に使う産業から出る煙は珍しい。産業から出る煙だから焚き火と違って常時、見ることができる、すなわち煙を主人公においた名所絵が成り立つのだ。

この絵が凄いのは、煙だけでなく、窯からの熱気も描いているところにある。右の窯は燃焼が終わっているが、まだ熱気を持っている。だから窯から立ち上る熱気が空気をゆがめている。その様子を版木の板目を強く摺ることで表現している。ゆらゆらと熱気(水蒸気)が立ち昇る様子である。

版木の木目模様が出るのは他の『名所江戸百景』の絵にもある。摺る時に強くバレンを使うと木目は出ると聞いた。しかし、この絵においては、意識して、そのような版木を準備したと思いたい。広重の発想か、あるいは摺り師の機転か、版元の意向かはわからないが、昔の人は信じられないことをやっている。

背景の空は、いつものように天をヒロシゲブルーに染めて、ぼかしを入れて徐々に薄くしているが、そこに横にたなびくブルーの雲、黄色の雲(この絵ではかなり褪色している)を入れて、近景の煙、熱気の縦の動きに対して、遠景は横の動きで対比している。

なお、遠景は色彩的には、空の濃いブルー、薄い青、黄色に加えて、筑波山、森の濃緑、そして空との際には朱を入れている。煙を描いても錦絵なのだ。

関防(かんぼう=題字を書いている色紙)は青、赤、緑を斜めにボカシも入れて華やかである。そこにも煙のような模様を入れている。

2.場所

隅田川の渡し場は、江戸末期には20以上存在していたようだ。この絵の「橋場の渡し」は、現在の地名だと荒川区南千手3丁目の白髭橋西詰に該当し、「橋場の渡し」の碑(標識)があるそうだ。浅草寺の斜め後ろ当たりの隅田川にある。
古くから知られている渡し場で、伊勢物語で在原業平が乗った渡し舟も、ここであると伝えられている。この渡し船に乗って、都鳥をみた業平は「名にしおはば いざこと問ん都鳥 我思ふひとはありやなしやと」と、都鳥の名前から都を思い出す。
広重も、この故実は意識していたようで、この絵においても行き交う渡し舟の下の方に、川面に浮かぶ都鳥を5羽、飛び立つ都鳥を3羽描いている。渡し舟に乗っている人よりも大きく描いている。強調しているのだ。

都鳥はユリカモメのことで、東京都の鳥として、親しまれている。

また源頼朝の軍勢が、ここに多くの船を集めて、舟で橋を造ったという伝承もあり、その“船橋”が”橋場”の語源とも言われている。

橋場は風流で雅趣に富んだ土地として、大名や豪商の別宅や有名な料亭が並んでいたとも伝わっている。この風情は対岸の桜の一群あたりにうかがえる。対岸は墨田区寺島であり、川幅は約160メートルほどの距離だったようだ。

現在でも、江戸川の柴又と対岸の矢切を結ぶ渡し舟が「矢切の渡し」として存続している。片道100円、往復200円だが、同じような運営形態だったのだろう。子供たちが小さい時、家族4人で自転車で矢切まで行き、その土手に自転車を止めて、渡し船に乗り、対岸の柴又の帝釈天にお参りして、参道でくず餅を食べて、また渡し船で戻ったことを思い出す。

『広重 名所江戸百景』を著したヘンリー・スミスは、「空へたちのぼる一条の煙は、人の世のはかなさと故郷を遠く離れた旅人の旅愁を象徴するかのように、詩情をたたえている」と書いている。在原業平の故事も踏まえている。

『広重ベスト百景』において赤瀬川原平は、この絵を吹景のベスト1に選定して、「画面の中心を、堂々と、何もない空虚な煙が縦断している。こちらはまるで空虚なパンチを喰らわされたみたいに、呆気にとられた顔に空気を感じる。何だか馬鹿にされたような気持ちよさ。竈では瓦を焼いているらしい。仕事ではあるのだろうが、仕事というよりはそれが人生であるような、そんな空気が消えながら立ちのぼる。」と評している。

3.今戸焼、運気立ち上る煙 

今戸焼は、素焼が中心の窯で、日常使う雑器や今戸人形とも言われる土人形を生産していた。瓦も生産されていたようだ。私も小さい時に、この名前を聞いたことがあるから、昭和30年代までは日常に普及していた焼き物だったのではなかろうか。
窯は達磨窯(だるま窯)と呼ばれている。この絵でもダルマの形がよくわかる。

窯と窯の間には薪というより藁(わら)のような燃料がおかれている。火を使う職場であり、火事が多かった江戸では、隅田川の横が一番望ましかったに違いない。

『謎解き広重「江戸百」』(原信田実著)によると、この絵ができる5年前の嘉永5年(1852)に今戸焼きの招き猫が江戸で大層なブームになったことが記述されている。買い手は浅草界隈の商家、娼家、飲食店などで、客を招くと縁起をかついだのだ。個人にも人気が出ていたようだ。すなわち、この絵を観た人は「あの招き猫の今戸焼か」と思ったに違いない。こういう背景を知ると、この煙が運気を招いてくれるような感じがしてくる。煙も熱気も上に向かうのだ。

窯の右側の黒くぼかしたところに雲母摺り(きらすり=雲母がちりばめてあり、横から見たりすると見える)が使われている。右下の河のよどみにも使われている。


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