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 以下の文章は、『広重のカメラ眼』の作者嶋田正文が、浮世絵の版元である佐野屋喜兵衛が絵師広重を訪ねたある日のことを短編小説風に書いたものである。時は天保11年(1840年)の初夏である。

版元

嶋田 正文


 弱小零細な版元がほとんどを占めていた江戸府内の出版業界にあって、元祖紙問屋二十九人衆と呼ばれた内の一軒に、屋号を喜鶴堂または佐野喜(初代佐野屋喜兵衛からの継承)と称した店がある。

 そこの四代目当主である入り婿の良平が、大鋸町に住む絵師の歌川広重を一ケ月ぶりに訪ねたのは、天保十一年(一八四○)の初夏で、今の太陽暦で言うならば、四月半ばの昼前。

 途上で見上げる桜の枝は、花弁がすでに散り切っており、今は若葉の萌黄が激しいほどの勢いで吹き出ていた。涼やかな薫風にわさわさと木立が揺れ返り、目にまぶしい新緑で一杯の木々の間から、ピーチクルキューと甲高く鳴き交わす鵯が、時に波形の飛翔をゆるく引いては、傍若無人に道の真上をよぎってゆく。鵯に特有のくすんだ灰色の羽根ですら、日の直射光によって頭頂が青緑色に輝り、腹には灰青色が程よく配されている鳥だと一瞬だが分かる。

 もし鵯を版木に彫ったら中間色も含めざっと四枚の板が要りそうだ、もちろん墨板を除いてだが、と頭の隅でとりとめもなく考える版元である。
 目を空から下げた佐野喜当主は、単羽で飛ぶ鵯や一集団で飛び移る椋鳥のけたたましさを特に煩いとも思わずに聞きながら、さて大鋸町に着いたらば、どうやって最初の一言を切り出していいものやらと思い返しもする。どうもこうもないに決まっている、と自分では疾っくに判っていながら、いや、そうとばかりも言い出せぬ事と、重々合点もしている広重側の内情を思い浮かべ、木々の新緑の揺らぎを見透かす如く歩いて行った。

 一本ずつの木というものは、見えない風の中で何故ああもうまく次々と全体が反り返るものだろうか。若葉の増した分、冬時分の裸木の時よりも動きが悠々として、風に反る幅は重たげに大きくなり、しかもゆるやかなのだ。一歩も動けぬ植物に備わった自在さというのか。佐野喜はそう観察する自身を殆どうたがわず、揺れ返る枝の突先に小鳥が軽くのっかって口嘴を足もとに擦り、左右交互にしごく影を眺める。一瞬でもこれからの用件が意識から遠のくのを望むかのように。

 佐野喜の本店である日本橋平松町の店から、広重の新住居がある通丁すじ中ハシ広小路の大鋸町までは程近く、およそ十町(20分)の距離。
 しかし今日はまず出掛けに江戸橋の南詰へまわって、海盗橋から堀向こうの牧野豊前様のお屋敷の奥へ通り、特別誂えの千代紙を届けた。
 そしてそのまま大名屋敷の多い堀川ぞいに歩いているから、塀の瓦の上に屋敷の林泉の木々が伺えるのである。

 一方、堀川の向こうは、喜色満面の小さな鼻垂れっ子たちが四、五人で走っている。水面にその姿が長めに映っては散りぢりに移る。中の一人が肩に掛けた荒縄の先に何かを括って引きずっている。耳もまだ立ってない子犬二匹がそれに噛みつこうとして吠え、転がるように追いかけ廻す。水遊びをした直後なのか腹掛けの子供も犬もずぶ濡れで泥まみれだ。後で家のおっかさんにどやしつけられるのも全て忘れ果て、遊びにとことん精を費やす幼い姿。

 佐野喜の家の息子は、もうあの夢中っ返って遊ぶ年頃をいささか過ぎた。が、彼の目の中には、幼い頃の伜の平一郎が家へ駆け込んで来る弾む姿が、まだくっきりとあって、もう一度あの年頃の我が子に道ばたで出逢ってみたい気がする。いや今が可愛くない訳じゃない。だが天真爛漫だったあの頃の愛くるしさは大人びて薄まっている。

 佐野喜は曲がり角に来たことに気づいた。堀の向こう側は堀川沿いの材木丁通りを一本隔てて、町屋の蝟集した区劃続きだ。その向こうに、広大な江戸城や大名屋敷の立ち並ぶ江戸の中心地がある。堀のこちらの松平越中様の門前から、越中橋をわたって直ぐ鋸町と正木町との間を出抜ければ、広重のいる大鋸町である。その周りは侍向けに刀装具などの品を作る手職人も数多く住んでいる。

 佐野喜は手に重る風呂敷を一度持ち直すと、物干し台のある一軒の二階家の土間に入った。好い陽気だから戸障子が半ば開け放ってある。
 奥の方から線香の消えたばかりのツーンと鼻を刺す独特の匂いが漂った。もしやこの家の主がまたも気鬱に陥って昼から仏前にでもいるのか。土間から奥へ声を掛けるのがためらわれた。嫌な談判を今日こそ広重へ向けなければならぬその矢先に、出鼻をくじかれたように佐野喜は感じた。が当の広重はそんな佐野喜の忖度を知らぬげで、居室にしている小さな庭に面した一部屋へ彼を通した時の顔色が、前月よりも、よほど元気を取り戻したかと見えた。

 今回は食欲も有りそうである。佐野喜の女房が作り、土産代りに持たせた里芋の煮染めと山菜の和え物の包みを広重は押し戴いた。
 出入りの絵師のそれぞれの好物を、版元の家付き娘である勘の良い女房が皆覚えている。料理するのが好きで上手なのが佐野喜の女房の内助の功と云うやつか。
 我ばかりが強くて偏屈人の多い錦絵師も、自分の好物の出されたのを前にすれば、相好を崩すことがままある。不機嫌や立腹で物をおいしく食べられる人はいませんし良い下絵だって描けないでしょうからネ、と云うのが女房の持論だ。

 昨年の十月下旬に突然逝ってしまい、安室了貞信女という戒名となった妻女がすでに身辺にいない広重は、この半年の間に以前よりもかなりやつれて痩せた。広重の妻女の弔い事が済んでから後、かなりの日数を置いて佐野喜は、既に何遍か広重に会いに来ている。最初広重のありさまを見たら、とてもじゃないが約束の仕事の履行時期について、佐野喜の口からは切り出せなかった。何せ向かい合って挨拶はしても、じきに広重の目は相手がそこにいるのを忘れ、佐野喜の背の遠くを見る。上の空の返事ばかり繰り返す。

 妻女の弔いの直後までは、誰が見ても様子のしっかりしていた安藤重衛門こと歌川広重だ。が、佐野喜の伝え聞いたところでは、それから十日ばかりして突然、寡夫の目から光が失せ、視線虚ろとなり、人格破綻者のように顔の表情が険しく怒った如く攣って、言動が一時乱れたという経過がある。重衛門の言い出すことに前後の脈絡が失せた、という。亡妻のことを突如つぶやく。『あれには生前、何一つ、夫としてしてやれなかった。不平を見せぬ女。哀れでならない』と言ったかと思うと、次には目があらぬ方へぎらつく。少年のように、『父上、母上、いずこへ!』と口走る。妻の死後、心痛と不眠とが重なったせいの発症であったらしい。今でいうなら欝病だろう。

 かつて重衛門は十三の歳に両親を相次いで喪っている。二月に母が逝き、十二月に父が没した。近身の死という悲痛な打撃はこれで三度目だ。遺された者は、近親が永遠に連れ去られた原因を、なぜ自分だけがこんな悲しみに会わねばならぬのかと問い、咎の元を自身の存在に見つけ、死者につぐなおうとする傾向がある。何もしてやれない子供時分よりも、大人になってから出会う死のほうがその衝動は強まる。今度のはそれだった。

 『妻が目の前から居なくなってくれればいい、と密かに疎ましがったこともある。何度もある。これがその報いか』と一日に朝から何度もそればかりつぶやく。最後はハラハラと落涙し、苦痛のやり場を得るごとく自分の顔や身を拳でなんども打つ。『身がだるいとあれが訴えたとき、せめて病変に気づいてやるべきだった。それを何もわからずにいた。なぜ気づけなかったのか!』と自分を打ち殺さんばかりに打つのだ。

 妻女は医者も手の下しようがない病だった。亢進性癌であったのか妻女は、しばらく胸元の不調を我慢した後、夫へ断り、床に伏せてから三日がもたず、見る見る内に痩せてあえぎながら衰弱し、手を取った夫の見守る前で鮮血が口と鼻から溢れ出て一度痙攣すると事切れた。
 妻女は、江戸城を大火から守る定火消同心だった彼が、二十二歳の折に娶った同職の岡部弥右門の娘。十七年間連れ添った後に、夫婦のアッという間の死に別れだ。二人には子がない。妻女の亡くなったその場所は、お城の東の馬場先御門の門前の八代州河岸の北詰めにある、定火消屋敷内のお長屋でだった。

 妻の死後二タ月を経ないうちに何を思ったか広重は、単身となった生活の場を替える。すでに安藤家の封禄(幕府の定火消同心職)は、入り婿だった父親の血の混じる広重から七年前に正式に、本家筋に当たる祖父十衛門の後添えが産んだ子の成長を待って譲られている。
 広重は、生まれ育った場所でもある火消屋敷の親方様(旗本)に転出伺いを提出した。そして許しを得てある日、屋敷内のお長屋から大鋸町へと移った。大鋸町は江戸府内の町人を住まわせると幕府の定めた区劃中にある。

 広重の一時おかしくなったと人伝に聞いていた佐野喜が、彼の居を移したと知って、大鋸町の様子を見に訪れたのもその頃だ。佐野喜の目に映った広重の反応は、耳にしていた火消屋敷の当時よりは表情がまともだった。
 第一、佐野喜が現れたのを内心驚いたようでもあった。彼は転居の挨拶を欠いた非礼を版元へ言葉短くわび、もうこの借家に慣れたとも言った。独り言を口走らぬし、自身を呪わず、突如落涙したりもしない。

 ここの大家が周旋した賄いの老婆が居て茶を入れた。小さな婆さんだ。近所から通ってくるというその老婆に、後で佐野喜が尋ねてみて分かったのは、広重がしばしば妻女や両親の墓参りに出かけており、その帰途に空っ風の吹く砂ホコリの江戸市中をかなり長いこと歩き回ること。彷徨うようなその姿を、老婆の伜が町廻りの間に何度か見かけたのだという。が、家に引き籠もりきりでないのは、それだけ当人の気持ちが外界へ向きだしたのだろう。

 しかし初めて訪れたその日は、病み上がりの広重との間で纏まった仕事の話をするのはまだ無理だった。作画の話を本人が一切しようとはしないし、こちらと対する際の目付きと返事は、傷ついて隠れたた獣みたいで、怯えを含んだままだった。

 佐野喜は老婆に少々以上の金子を渡し、辞退するのを押し止め、自分の店名を教えた。
 また近々寄らせてもらうが、お婆さん、もしその間に何か気づいたら、細かいことでも何でも好いから、日本橋平松町の店へ知らせてほしい。ウチの店にとっては大事なことなんで、ぜひあの人の世話をよろしく頼みますと言い残して帰った。

 勘のいいらしい老婆で、その後は何度か、町をぼて振り商売中の自分の伜へ託し、口伝で広重の様子を知らせてきた。
 それによると、まだ折に広重は心身を不安状態に任せきる衝動を欲するかのようだった。朝ふさぎ込んで老婆の飯を食おうとしなくなったり、目を開けたまま寝床から半日も起き出してこない日があったり。かと思うと白々明けから独りで呑んでいてぷーんと酒臭くなっている朝があり、昼には酔いしれた身を持て余し、寝転んで壁を踏まえていたり。果ては酒の余勢でか、老婆の伜のぼて振りから戻った姿を写生しに来たりした。

 具合の悪さだけでなく、良い兆候も聞けた。ある日は、川越に嫁いでいる広重の姉のタツから、飛脚で届いた手紙と包み(涼しげな夏用の浴衣数着)とをひろげ、静座し見つめていた広重。そして姉へすぐにお礼の返信をしたためたとか。字はすらすら書いていたという。またその浴衣から一着を、年齢と背丈の似た老婆の伜にと譲っているのだ。

 脇からそういう情報を得ながら佐野喜は二、三度大鋸町へ足を運んだ。最後に訪れたとき、江戸はまだ空っ風の土埃が立っていた。その後、一ト月の間を置いて四月半ばのこの日の訪問に至ったわけだ。佐野喜には、もうそろそろ広重の回復度合いを見極めねばならない理由がある。老婆は何かの用で他出していて、今は二人だけがいた。

 「心待ちにして一ト月が経ちました」佐野喜はそう切り出した。「昨日までそちらからの手紙は届かなかった。或いは今日、私が店を空けた間に入れ違いで届いたか?」
 佐野喜は相手を刺激せず目をぼんやりさせながら、返る言葉を待った。暫くしても声は来ない。軒場で昼の雀たちがカチカチとくちばしを打ち合わて激しく鳴いた。
 「手紙では思うことが書けなかった」やっと広重がそう言った。「申し訳ない」
 「わたしの独り相撲ですか?」佐野喜の声が部屋に響いた。「結局、安藤さん。その気持ちは、私と一緒に同じ土俵には上がってもらえないというご返事ですか?」

 うつむいた広重は、膝に突っ張った腕をもう一方の手で強く掴み替えた。手は掴む位置を既に数度替えていた。掴む強さの変化が膝と手の揺れで、佐野喜から見えた。
 「奥様の突然のご不幸は、重々お気の毒でした。けれど、今からわたしの言うことは、むごいかもしれませんが、気を悪くしないでください」佐野喜は嗄れそうな自身の声を聞いた。「それとこれとは別のことにしたい。そのほうがお互いの為に良いのです」

 痩けた広重の顔が、一瞬緊張し、首を横に振ろうとしたが停まった。それから微かに下唇をかみ、佐野喜の言った今の意味が身にしみてきたか、徐々に深く承知するように一つ頷くのが見えた。そして、右手の掴む力が緩まり、腕沿いに段々すべり落ちた。

 「奥様のことから、この半年間、わたしも待ちました」待ちました、に語勢があった。安藤さん、きっとあなたの心もそうなのでしょうという響きだ。佐野喜は続けた。

 「昨日までずっと待ち続けました。あなたに良い仕事をして戴きたいからです。特にこの一ト月間は、駄目だというあなたの断わりの手紙が今日にも来るのじゃないか、そればかりを恐れました。しまった、口で言いずらいなら手紙でなんて前回あなたに頼むんじゃなかったと、わたしはそればかり悔やみました。恐くてここを訪れることも出来ませんでした。今は直接あなたからお答えを聞くまでは諦めないつもりです。あ、最後まで言わせてください」と手を上げた。

 「確かに去年の約束は、奥様の不測の事態の前。今は事情が変わったと、それを言われたらば、わたしは辛い。それでもあなたのお気持ちが、どうしてもそう傾いているのならば、思い直します」
 思い直すと言うのを聞き分けてか、広重の顔がゆっくり上がった。目が佐野喜を捉えた。すると彼の眼前には、広重の返答一つで引き下がってもいいと今述懐したばかりの男が、全く逆の雰囲気で腕組みをしていた。
 その顔は、良い返事をくれない限り私はあきらめないと言っている。広重は、今まで全く見知らなかった手強い相手の正体と出会ったかのように、版元佐野喜の若い表情を見つめ直した。

 佐野喜が言い出した。「店の先代主人には、よくこう叱られました。おまえって者は、仕事の目利きが下手なくせに諦め方はごく悪いんだ、お前のは理屈が逆じゃないかってね。そんなたわけ者を、よくも娘婿に選んでくれたもんで先代に感謝してます。安藤さん、断る前に少し私のグチを聞いてもらえませんか」
 佐野喜は煙草入れを腰帯の背から抜いて膝においた。

 「わたしは元が房州銚子の浜からこの江戸へぽっと出の田舎小僧でした。佐野喜の店に奉公したその時分は十二でした。
 周りからは銚子の漁師言葉がぞんざいで汚え、と叱られっぱなしで、何か喋っちゃア世間知らず者ヨと嘲笑われていました。江戸では子供でも知っていて当たり前の千代紙や絵半切の名も私は知らず、それに外回りだって江戸の地理不案内で、恐くて出来ない厄介者でした。
 でも私の言いたいのは、そんなわたしのことじゃァなくて、先代の佐野喜のことです。佐野喜は亨保の始め頃からの紙問屋だそうですから、店はかれこれ百二十年は続いてます。三代目の自慢は、つまりわたしの義理の父親になってくれた人の密かな自慢は、何だったと思いますか。
 それは、あの歌川広重に一等早くから風景を描かせたのはうちの店だっていうその一点です。ほかに何かを得々と自慢したがるようなお人じゃなかった。これは親父がわたしにだけ言い遺した自慢話です」

 広重は遠くを見入るように目を細めた。「先代の言われた通りだ」と言った。「しかし、それがあの方の大事な自慢になっていたとは、ついぞ知らなかった。どうして?」

 黙ったまま佐野喜は煙草を雁首の皿に詰め、鉄瓶の載った火鉢からキセルを吸い付けた。広重のしゃべる言葉を待っているのだった。
 「そうか、あれは先代のご配慮からだったのだ」と懐かしげにそう言って、広重も自分のキセルを引きつけた。「確かに風景の初注文だった。道中絵図や屏風絵や美人画の添えものではない、新しい風景画をと先代から話があった。あの時のことはよく覚えている。拙者は改めて高輪の大木戸や吉原堤を見に行き写生をやった。それが『東都名所』の八枚組だ。あれは拙者の目を開いてくれて、かたじけなかった」

 「それが女房の父親の、生涯とっておきの自慢でした。判形の大きさは?」
 「たしか中判(22×28・8Cm)だった」
 と広重が手で示し即座に答えた。近頃の彼にしては素早い動作だ。
 「そうです。あれは横書き」佐野喜はそっと言い添えた。「中判錦絵だった」

 広重と喜鶴堂との付合いは、先年物故した慧眼の佐野喜三代目が十三、四年前、まだ目が出ずほとんど世間で無名だった定火消同心時代の広重に、『東都名所』八枚組の風景を中判錦絵で注文して以来だ。その最初の八枚組風景は残念にも当時は評判にならなかったが、俯瞰構図による風景の切り取り方のすっきりした処理感や、色数を抑えた地味系の色彩の中で、藍と淡赭とを微妙に配置して既に後年の広重を伺わせる閃きがあった。
 と、そう四代目佐野喜の良平は思っている。

 「ところで、人に目利きをひけらかさなかった親父が、私にだけそれを言う理由があります」そう言った佐野喜が、今度こそ正面からまともに広重の目を覗き込んだ。
 「或るとき、小僧時代の私は、三代目に呼ばれました。物になりそうな若い絵師が一人いる。今その絵師が描いたものを何枚か見せるから、お前、どう思うか言ってみなさい。
 これは三代目がわたしにそう命じたんです。わたしは平松町の店に奉公してから四年、まだ十六のガキでした。周りから田舎者呼ばわりされ、コケにされてたんで、ついつい同輩を離れて暇を見つけちゃア片っ端からお店にあった自分の未知のものを、商売の読み本でも錦絵でも何でも引っ張り出しては見てました。
 三代目主人はどういうわけか、私が人に隠れてそういうことをしている不敵な小僧なのを知っていたようです。私は主人にも隠れて無断でやっているつもりだったんです。
 その時、出して見せられたのは錦絵用の墨描きの下絵でした。見て直ぐ私は下絵と判りましたが、三代目が恐いような真剣な顔で正面から、今直ぐここでお前がどう思ったかを言ってみなさいと睨むようにしてましたから、わたしは暑くもないのに汗が全身の毛穴から噴き出ました。
 その時のわたしが何を三代目の前で口走ったかを、今では全く覚えていません。震えながら何か喋ったことは確かですが、記憶にあるのは、もう店へ戻っていいと三代目に言われて、ふらふらと立ち上がった時の安堵感だけです」と言って、キセルの灰を煙草盆へトンと打ち落とした。

 四代目佐野喜は、四十二歳の広重から見ると、子供みたいな一面をも現わす版元だ。一回り歳下のはずである。童顔だが版元としての手腕はこのところ伸びがめざましい。
 「四、五日して」と佐野喜は続けた。「わたしが外回りの注文届けから戻ると、また主人に奥へ呼ばれました。

 今度は先代の前にお客様が一人対座して居らっしゃいました。刀をそばに置いたお武家様です。私は入り口で畏まって挨拶を申し上げました。先代はわたしに坐るように言ったきり、わたしを呼んだ用事を忘れてしまったのか、そのお客様と非常に熱心にお話の続きをしておりましたっけ。

 殆ど主人からお客様へ何かを熱心に説いている感じでした。主人は最後まで、わたしに何も用事を言いつけようとはしません。私はお話の途中を遮るようで主人に聞けず、このまま退がっていいものやら進退が分からず、お武家様がいらっしゃるし、黙って脇に坐っておりました。あッ、先代は途中で女子衆にそう言って、わたしの分のお茶菓子を追加で運ばせたんです。初めてのその特別扱いに、わたしは魂消ました。主人に薦められたって、気恥ずかしさで茶菓子に手を出せるどころじゃありませんよ。そんな恥ずかしい年頃でした」

 広重はまじまじと版元の顔を見た。今の良平の話で思い出せるよく似た光景があるのだ。しかしこの話し手が、まさかあの時の少年と同一人物とは思えなかった。

 かつて広重が、佐野喜の平松町の店へ『東都名所』八枚組の下絵の残りを届けに寄ったおり、奥へどうぞと引き留められた雑談の中で、三代目佐野喜が、一人の年少の使用人の目を特別に褒めたことがある。主人が或る理由で、返辞次第では里へ帰すつもりだったその子供が、広重の風景の下絵を見せたら、主人へこう答えたという。
 『この人の絵は、絵の中の物の距離と見る者の目の位置の繋がりが、透明で、ピッタリ合って気持ちがいい。この景色を空中から、その場に浮かんで見せてもらったような気にさせる。けど絵の中の物の大きさが皆似てるんでモサモサしてるのと、何かそれが少し寂しい感じっていうか、多分これを描いた人がそういう気持ちにいるんだと思う。だから錦絵の色は増やしちゃ駄目です』という意味のことを、あごの角張った真面目顔の先代が話してくれたのだ。

 なるほど、自分の内面を少年が看破してくれたようだと思った覚えが広重にはある。
 その小僧は、いま店の用事で外へ出ていますが、おっつけ戻ったら奥へ呼ぶようにしてありますと先代は広重に言ってから、今の件とも関連するのだがと話頭を振った。

 当代随一の読み本作者、『椿説弓張月』の曲亭馬琴とはご面識がありますかと先代は尋ねた。無いがと広重が答えると、先代佐野喜は、ならばどうですか、安藤様、これが錦絵に仕上がったら私が紹介状をお書きします。あなたの将来の画業の大成の為に、絵と紹介状とを携えて馬琴の家を訪ね、彼に会い、その道の大家とは何かをご覧になりませんか。いま馬琴は六十二歳ほどですが、旺盛に大長編の『南総里見八犬伝』を執筆中です。人間が研鑽によってどこまでも伸びる好例です。いや遠慮することはありません。彼もあなたの絵と人とを見抜いて肥やしとするでしょう。彼と謙虚に交際なさったらいい。この商売柄、あなたの美人画や役者絵を以前から密かに拝見していましたが、あなたはこれまでより以上にいろいろな人物と出会うべきです。佐野喜がこの商売で付き合いのある、これと思う方に、追々あなたをご紹介も致します。

 広重にとって重大な忠告だった。口先だけではなく手を差し伸べてくれたのだ。
 先代はまた、葛飾北斎の猛烈な史料収集癖を例にとって、築図には、奇抜な発想を超える目が要るはず、それを養うには日頃から自分に投資をせねばならない。あなたは南宋画や日本古来の絵巻物を研究しておかれるといいと思う、と先代が熱弁を振るう間に、入って来た子供は、だから主人の言い付けで運ばれた茶菓子を与えられ、主人に勧められても菓子には手をつけず、肩を固くしたまま隅にじっと坐っていた。あれは痩せて色の黒い、目立たない田舎風の少年だったという印象しか江戸生まれの広重にはない。が今、良平の話と広重の記憶像とはまったく一致した。良平とは佐野喜の先代が亡くなってからの面識、だと広重の思っていた相手だ。「良平さん、いや版元。あの時の座敷に店の子供が来たのは覚えている。だがあれがあなただったとはな。気づかなんだ」

 ふくよかな童顔で頷き、良平は言った。「実は、安藤様が帰られてから、後で先代がわたしに、あれがお前の褒めた広重だよと教えてくれました。ヒロシゲ? だったら、わたしが見せられた風景の下絵の作者名です。まさかお武家様とは思っていませんでした。先代はわたしの驚き顔を見て、心底嬉しそうに笑い、そしてこの肩を叩いて、これからは主人専用の書棚にある蔵書を何でも好きに見てもいい、コソコソ隠れてやるなと言ってくれました。

 他人から馬鹿にされない、気持ちの良い笑い顔を向けられたのは久しぶりでした。神仏に救われた気がしました。それからの私は、田舎者の狭いひがみ根性をなるべく捨てて、自分でも多少人間が変わってきたとそう思います。

 その日から、わたしは安藤様、いや歌川広重の画業を注意深く拝見するようになりました。佐野喜の店が次やその次にも風景をお願いしたものは勿論です。その他、主人の書棚にあった絵で、版元が西村屋与八、岩戸屋喜三郎から出た歌川広重の美人画。もっと後には川口正蔵の店が出した江戸風景。安藤様の絵に関して語るのは、取りも直さず使用人の私と、主人である先代との二人だけで共有する楽しみであり、いつしか望みになりつつもありました。

 先代がやがて、私ごとき目下の者に打ち明けてくれたのは、安藤様に時々佐野喜からお願いしたような、近在の名所を写すお手軽なものではなく、いつかは佐野喜が版元となって今までにない大きな仕事をしてもらおう、ということでした。
 十九歳になった私を、六つ歳上の一人娘の入り婿にしてくれたのも、その夢に近づく手段だったのでしょう。しかしご承知のように先代は、私を婿養子にしたその三年後、つまり八年前に卒中で倒れました。半日の深い眠りから覚めたら半身不随の寝たきり同然です。舌がもつれて言葉が聞き取れません。が三代目はあの夢を最後まで諦めてませんでした。その強い意思だけは、わたしと女房にはよく通じていました。しかし若輩者のわたしでは、先代が生きている間に、とてもじゃないが佐野喜の店の舵取りをしながら、同時に先代の夢を身近なものとするのは不可能です。半年後、先代主人に二度目の卒中発作が起きます。それから二度と覚めませんでした」

 良平はキセルのラオがまっすぐか確かめるみたいに自身に向けた。溜め息をついた。
 「先代に何の手も貸してあげられずに逝かせてしまった。私は自分の非力を責めました。気持ちのやり場が無くて、酷いことですが、何も罪の無い女房に手を上げたこともあった。今は少し違います。思い直しました。私にとって今になって思えば、せめてもの慰めであったのは保永堂版の東海道五拾三次が版行される直前に、何も知らずに義父が逝ってくれたことです」

 広重はアッという目になった。なぜこの良平がしつこく迫ってきたか初めて理解した。広重は表情を静め、腕組みをした。すると佐野喜は一人合点で頷き、それへ言った。

 「もちろん先代が、身が不自由ながらもまだ存命していて、歌川広重作の『東海道五拾三次』の画業を見たならば、我が事のように喜んだでしょう。
 孫の笑顔一つ見ても涙もろくなっていましたから、さぞかし顔を歪めて嗚咽しただろうと思います。
 しかし同時に、長年の夢が人手へ移ったことをも知ったはず。もし身が健やかならば、夢を再び取り戻しにも行ける。もっといいものを描ける筈と絵師を導き版元の助言もできる。しかし寝たきりの生活をして、手の届かない彼方へと夢の去った打撃を受け入れたままで、人は何になれましょう?
 年のゆかない婿の私は、義父の夢にからきし役に立たないのですから。その意味で、先代の死は幸せだった」

 「安藤さん」今は目を瞑った相手に、良平は静かに呼びかけた。
 「私はどうしても先代の遺志が継ぎたかった。いくら時間がかかってもいい。自分がそれをやれる器かどうかは分かりませんでしたが。いつか将来、それがいつ来るのかは分かりませんが、先代のいるところへわたしが逢いに行く日に、夢の成就をちゃんと報告してあげたかった」

 良平は相手を見つめた。絵師の瞑った眉間に影の走ったような気がした。が、それだけだった。目蓋の下でうごめき、何かを探っているような目玉を広重は明けなかった。

 八年前、広重が下絵を描いた『東海道五拾三次之内』の版行がある。版元となったのは江戸の新興紙問屋で、保永堂こと竹内孫八が、一世一代の大博打で次々に版行した。
 五十五枚が完結し、揃いもので売り出された時、当時の世人を一挙に風景版画に熱狂せしめた。出世作『東海道五拾三次』の人気を背景に広重は、各方面から望まれるままに多作をこなしてきた。何でも描く絵師だ。版元から、東海道五拾三次風にという注文が付けばそれにも応じた。

 一方、良平は去年の夏以来しきりに広重を説き、出世作東海道の出来を、あれを飛び越える質のものをと望み、次は佐野喜から版行したいと強引にその口約束をさせ、諸々の手配を始めた。その折は、今良平の語ったような話を聞いていない広重だ。

 そこに突然、妻の死という変事が起きなかったなら、広重は今頃何も迷わず注文の一つとして彼の第二作目の東海道を描き、すでに佐野喜へ下絵を何十景か渡していたか知れない。
 半年前までは筆に気持ちを集中すれば、一瞬に画題が、広重調と持て囃される如何にもという構図になって現れ出たものだ。が今は、今の悲しみにそぐわぬ安易な作り物に思え疎ましい。あのままもし描いていたらと思うと目のくらむ思いのする広重だ。

 広重には、やっと近親の死から立ち直ってきた過程で、自分と従来の絵の調子とが乖離してしまったという、誰にも言えぬ、言ってもどうしようもない内部変化が生じていた。たとえ相手が版元であってもである。思い切って描けないのは広重自身なのだ。

 「これ以上、言いますまい」佐野喜は様子を見極めキセルをしまった。「先代のことをついつい申し上げている内に、今の安藤様のつらいお気持ちが、改めてよく解ったような気がいたします。人の気持ちを、私は、まだ解っていません。半人前の版元です」

 邪魔した詫を言って、立ち上がりながら佐野喜は自笑した。「つまらぬグチを聞いていただきました。どうかお忘れください」
 彼は、他人にこんなことまで打ち明けたのは初めてだった。もう自分が再びここを訪ねて来ることはないだろうと思った。段取りした版板や絵具の無駄はなんとかなる。広重を恨む気は不思議に湧かない。

 「良平さん、いや版元」広重が下から尋ねた。「これから他へ回る急ぎの用事があるのですか?」その目が見開かれていた。
 佐野喜のかぶりが振られたのを見て、「だったら今の私を見捨てて帰らずに、もう一度お坐りください。こちらも今のお話で、あなたの真意が分かってきたところです。あなたは、私がおかしくなっていたこの半年間だけじゃなくて、少なくとも先代が倒れた八年前から私を待ってくれていた。確かにあなたのほうにも佐野喜四代目に相応しくなる準備に、その年月が要ったんです。だったら今、あなたとこんな状態の拙者とが組んで何ができるのか、今からもう一度検分してみたい。佐野喜先代の夢に、お互いで何ができるのか、何が不足となりそうなのか、話しておく必要がある。まだ生きている我々二人の間でね。特にそのうちの一人が、以前のようには描けそうもなくて、版元からの助言が要るボロボロな絵師とわかっている場合はね」

 広重が本気で最後をいったらしい、と佐野喜には察しられた。
 「下戸ではなかったはずだね?」と若い版元と入れ替わりに立つと広重は良平を見返った。「事始めにと言っちゃ何だがよかったら一献。さっき戴いたお土産もので」
 広重は台所から湯飲茶碗を二つと酒の徳利をもってきた。良平の女房が煮てくれた里芋は舌にトロリと溶けるほど柔らかだった。広重は里芋をたてつづけに口にした。久しぶりに物を味わうような人の姿であった。

 と、空中をブーンという重い何かの、かすかな振動が伝わってきた。
 酒を手に、何だろうかと庭の方を見ていた佐野喜が振り向き、こう聞いた。
 「今、増上寺のものらしい突き鐘が聞こましたか?」
 顔を上げた広重は、「もう江戸湾から江戸の町へ南風の吹き上がる季節なのか」
 去年の夏、火消屋敷のお長屋で、妻と一緒に聞いたことがある、とは言わない。
 「ああ、それで良い鐘音が遠く南から聞こえたわけです」と佐野喜が納得して言い、飲み慣れない茶碗酒を少しだけ口に含んだ。

 賄いの老婆が汗を拭き拭き外出から戻ったとき、もう四代目佐野喜の姿は家の中にはなかった。ただ、涼風のとおる座敷に、老婆の初めて見る、安らいだ表情の広重が一人でぐっすり眠っていた。佐野喜の置き忘れていった茶色い風呂敷がその寝相のそばにある。老婆はせがれの物のようにそれを静かに畳んだ。

 その秋口からである、佐野喜版東海道五十三次の五十六枚が、数景ずつの版行で江戸市中の店頭に並び出したのは。


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